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ふるさと滋賀への思い
                                      須 田 康 夫(大津市出身)

 滋賀を離れて60年、ふるさとへの思いは年齢とともに益々強くなるものです。
その思いから、毎年滋賀を訪れますが、新幹線の車窓から眺めるふるさとの光
景は、全く昔の面影をとどめておらず、また、かつての住家周辺の街並みは賑
わいをなくしているため、一抹の寂しさを覚えていました。
ところが、昨年、彦根市に一泊、翌日びわ湖汽船で竹生島を往復する機会があ
り、今までにない懐かしいふるさと体験をして参りました。
彦根港から出航直後、湖上からの彦根城は湖面に美しい雄姿が映え、日本のほ
かの有数の古城にはない素晴らしい光景に強い感動を覚えました。
竹生島では、竹生島神社に向かう急傾斜の石段をやっとの思いで昇りつめ、神
聖な神殿に参拝しました。
当日は、幸い好天に恵まれ、湖面はまさに鏡のような穏やかな船旅でしたが、
湖上はるかに望む比良・比叡の山並み、水面を走るヨットの帆影などは、60年
前と全く同じ姿で昔にタイム・スリップしたようでした。
さらに、船上で聞く「琵琶湖周航の歌」や「琵琶湖哀歌」は、高校生の頃瀬田
川において、校内ボート競技に熱中した青春時代の記憶を蘇らせてもくれまし
た。
今回、図らずも、変化の著しい陸地を離れ、琵琶湖の真っただ中で周辺の変わ
らぬ山並みを遠く望み、また、びわ湖の情緒に触れることにより、当時のふる
さとの思い出に浸ることができ、納得して、ふるさと滋賀を後にした次第です 。

平成29年5月


滋賀県での思い出
                                      嶋田 建弘(旧虎姫町在住経験)

  滋賀県との関わりは父が旧制虎姫中学、新制虎姫高校の体育の教師として奉職
しましのでた幼少期、小学1年2学期から中学3年2学期まで旧・虎姫町で過
ごしました。故郷は千葉県茂原市ですが、房総千葉とは違った風光明媚で人情
味に溢れた周囲の方々の温かい雰囲気を母が気に入って、私が10歳の時に父
が亡くなりましたが私達兄弟姉妹を滋賀で育ててくれました。
小学生時代は父が作ってくれたバットとボール、キャッチャミット、ファース
トミットで虎姫町宮部神社の境内で三角ベースボールの野球に熱中し、夏休み
なると家の前の小川で宿題もそこそこに魚取りに夢中になりました。中学時代
は姉川で水浴びをした後で毛鉤と急ごしらえの竿で小鮎を沢山釣って帰って母
に美味しく料理してもらいました。私は戦時中6歳で肋膜を患い祖父が医者で
したのでペニシリンとリンゲルの治療のお陰で一命を取り留めました。虚弱体
質でしたが小学4,5年で伊吹先生に縄跳び、跳び箱の指導を受けて体力も少し
ずつ向上し、2番目の姉が男勝りで運動能力があって県大会でも活躍しました
ので、体育担当の広部先生が弟を鍛えようと無理矢理バレーボール部に所属さ
せ9人制の中衛センターでトス役で鍛えられました。前衛では八森君、横田君
かっこよく飛び跳ねてました。リレーの選手にも抜擢されて体力にも自信が付
きました。図工の先生には模型グライダーの滑空大会の参加で長浜市まで引率
して頂き上位入賞しました。また中学時代には楓先生に弁論の薫陶をうけて県
内各地で弁論大会に出場して数回優勝しました。吹奏楽部が創設されて学業成
績が良かったので無理矢理バリトンを担当させられました。八森君はアコーデ
オン担当でした。
中学では数学で清水先生に幾何で線1本で難解な図形に回答が得られるヒント
を教えられたのが鮮明でした。お陰様で数学は千葉に転校してからも好成績を
修められました。祖父(母親の父)が昭和28年に茂原で千葉県内5番目の老
人ホームを開設しましたので栄養士として母を呼び戻しましたので虎姫中学2
年2学期の12月下旬に茂原市立鶴江中学に転校し、千葉県立長生高校に入
学しました。
昭和60年頃、家内を連れて旧・虎姫町、長浜市、姉川、小谷城国友等を見て
回りました。家内は民家の前に流れている小川が川底が見える程に綺麗なのに
驚きました。中学時代に弁論大会で共に活躍した中尾様(旧姓・大村様)を長
浜市室町に訪ねて格式のある立派な家屋に家内も感銘しました。その後、大河
ドラマで長浜が放映された時に千葉ライオンズクラブの旅行研修会で中学で同
級の音羽様が嫁がれているロイヤルホテルに中尾様の紹介で宿泊し、長浜城、
国友、長浜市内見物、長浜曳山祭りを見学しました。
その後、歴史作家の武田健作様が私共の先祖の仁科盛信公の取材で茂原市の母
の実家を訪ねられ、滋賀県人会を紹介され入会しました。故郷の伝統文化の一
助にと「長浜曳山祭り」に昨年故郷納税をさせて頂きました。

平成28年11月



彦根に伝わるゲーム「カロム」
                                      植野克美(彦根市出身)

  10月27日、千葉滋賀県人会の催しで船橋港岸壁に静態保存されている「南
極観測船しらせ」船内見学ツアーに参加しました。
  その際、ガイド役の方から「滋賀県人会の方なら、ご縁のある南極観測隊の
著名メンバーをご存じでしょうか?」との質問があり、会員の中から「村山雅
美さん、西堀栄三郎さん」などのお名前が挙がりました。次いで、「長い航海で
乗員が無聊を慰める室内ゲームは?」と問われ、小生が直ちに「カロム」と答
えたのはたまたま彦根出身だったからです。
  「カロム」という室内ボードゲームは、日本中で彦根市のみで子供たちを中
心に行われている遊びで滋賀県出身の方でも意外にご存じない方が多いと思い
ます。
  8月下旬の地蔵盆などの際、小学生がお地蔵さんの近くでムシロやゴザを敷
き、日がな一日スイカやまくわ瓜などを食べたり、「カロム」を行っていたのを
懐かしく思い出します。
  カロムは、2人もしくは4人で行うゲームであり、キャロムやカルムなどと
も呼ばれます。
  12〜13世紀にかけてエジプトでその原型が確立されたと言われるこのゲ
ームは、その後英国でビリヤード(スヌーカー)に変わったとされ、日本には
ウィリアム・メレル・ヴォーリズがもたらしたのではないか、と言われています。
  ビリヤードのような盤上ゲームで、四角い盤の上に並んだ偏平な円筒形の木
製パック(赤と緑)に向け自陣から同サイズの自身のパック(自玉)を指で弾
き、自身と同色のパックに当て四隅のポケットに入れます。最後にジャック(大
玉)を入れた方が勝ちです。ご興味のある方は日本カロム協会のHPをご覧く
ださい。(参考資料:彦根市青年会議所内日本カロム協会HP)

平成28年11月






滋賀県の認知度
                                         野田繁樹(豊郷町出身)

  皆様、ご清栄のことと存じます。
今回、千葉滋賀県人会の会報に投稿するにあたり、まず熊本地震の被害に遭わ
れた方々にお見舞いを申し上げます。
二週間以上に亘り揺れが続き、被災地の県民の皆様方、生活に困っていらっし
ゃることと存じます。一日も早く通常の生活に戻ることを願っています。
(政府、九州、県、他府県、ボランティアなど一丸となっての協力が必要。)

さて、滋賀県の事で先般、県別の認知度が42位と聞き、驚きました。滋賀県
の面積は琵琶湖がほとんどだと大勢の人が思っているみたいです。県の方では
琵琶湖は6分の1しか占めていませんとPRしていますが、島根県、鳥取県がど
こか右か左か位置さえ認知していない一部の人がおるように、世間ではその程
度の認識しか無いようです。年一回の県人交流会(首都圏できばる「淡海の人
大交流会」)が品川プリンスホテルで開催され、知事及び知名人も参加されます
が、他府県に比べPRが少ない様に思われ、また、アンテナショップも同じでご
ざいます。
我々も滋賀の良いところをもっとPRしたいと思っています。
尚、神奈川県人会の会長井上氏は私の友人です。我が千葉県人会、埼玉県人会
を含め、各県人会が協力して滋賀県をPRしましょう。

平成28年5月



近江は父祖の地
                                         佐倉市  北川照夫

  近江は私の祖先の多くの人々が、500年に亘り生活してきた故郷である。
北川家は蒲生氏の一族であるとされ、室町時代の後期に蒲生から分かれ、北川
郷を領したと言う。以後は蒲生氏の郎党として日野や高宮に住んだらしい。言
葉が推測になるのは、明治になって彦根から横浜に移住した私の祖父母が関東
大震災に遭い、罹災死し、家も古文書、武具等、すべて焼失してしまったから
である。私の父は当時10才であり、祖先の事は知らなかったが、大叔父や親
戚から聞いたところによると、先祖は蒲生家の武将で在り、関が原では石田三
成の下で西軍として戦ったそうである。彦根藩士となったのは延宝5年(16
77)であるが、敵方であった為、知行は与えられず扶持米取で有ったという。
住まいは小道具町1丁目(今の彦根市役所の所)にあり、井伊直弼公の埋もれ
木舎とは近く、北川家八代、九代当主は能、謡の名手であったこともあり、交
流が有ったという。その関係か、直弼公が藩主になると取り立てられ、屋敷が
倍の広さになったとの事。
しかし、直弼の死後、逼塞を命じられ、屋敷を追い出されたという事である。
九代目は天寧寺のすぐ下の、里根七番屋敷に住居を移し、八代目の墓を天寧寺
に建てた。北川家は日野以来、浄土真宗本願寺派の信者であるが、八代目と九
代目だけが曹洞宗天寧寺に葬られている。しかし、私の祖父母も罹災死したた
め墓を持つことが出来ず、ここに葬られている。このことを、知ったのもごく
最近で、以後、京都へ行くときには天寧寺に寄ることにしている。新幹線では
必ず琵琶湖の見える席に座り、湖を見ながら先祖を偲んでいる。近江は私の心
の故郷である。

平成28年5月



温か古里とおくなる!
                                         脇阪 亨(長浜市出身)

  千葉県に在住して53年が経ちました。千葉県は気候温暖、都心に近いが故の
数々のメリットがありますが、自分が農家の長男であるという意識があってか、
定年後は滋賀へ帰ることを妻に言い含めておりました。しかし50歳の時に故あ
って自営業を始めてからは顧問先の関係から帰郷は不可となり、69才で家を建
て直し墓まで用意してしまいました。
  その少し前に、息子一家が転勤のため近江八幡市に住むようになりましたが、
自分の帰郷はあきらめざるを得ませんでした。これにはかなりの覚悟が必要で
した。
  今は滋賀の空気に触れることを慰めとしています。毎年秋になると、新米は
“近江米”(こしひかり30s)、高時川(妹川)の外畑(堤防の水流側)で育
てられた“牛蒡・とろろ芋”実家の屋敷になった“柿”を食し、さらには正月
のおせちには“鮒ずし”をいただいています。
  先日高校の同級会が長浜市で催され、懐かしい面々に会ってきましたが、駅
前に“モンデクール”というショピングセンターが本年2月に開店しています。
私が小中学生の時は、学校へ行くとき母親は、行ってらっしゃいでなく“早よ
うもどらんせ”でした。早く無事に帰ってきなさいよということです。無事に
帰ってくることを祈り、無事を促す滋賀県の人々のやさしい心根を“モンデク
ール”が思い起こしてくれました。
  いつまでも滋賀の品々を送ってもらうことは難しくなります。しかし何にも
勝る故郷の味は、いつまでも活動が続く“千葉 滋賀県人会”です。よろしく
お願い致します。

平成27年12月



私のふるさと
                                         井上嘉平治(守山出身)

  四方山の景色と広々とした田圃の中に、在所がある。そんな野洲郡小津村という小さな村に、私は生れました。現在は守山市になっています。春は麦とれんげが咲きほこり、空ではひばりがさえずり、あちこちで田植え前の作業に牛が活躍していました。一年もすると、近江牛肉用の予備軍として、別の子牛と交換され別の育て方をされるそうです。そんな田舎生まれの私は、在学中は勉強より農業の手伝いの時間の方が多かったように思います。  
  旅行の思い出も、小学校の遠足や、中学高校の卒業旅行位で、私的な旅の思い出は余りありません。その代り御輿の出る村のまつりや盆踊、そして旧中仙道守山宿の守山市(いち)、夏のホタル祭り、今は行われていないと思いますが、当時はそこそこ大きな行事でありました。高校卒業を控え、東京に就職が決まり、昭和31年春上京、数年後入社の東京生まれの女性と結婚しました。結婚後、女房が大変滋賀が気に入り、実家の冠婚葬祭や、夏休暇を利用して、湖国近江の神社仏閣、戦国武将ゆかりの地や景勝地の大方を訪れました。その素晴らしさに感動した様です。  
  最近は滋賀に行く機会が減り残念ですが、先年久しぶりに地元守山を散策していて感激したことがありました。私は在職中から謡曲を趣味としており、謡曲には滋賀が舞台になっているものが数多くありますが、たまたま散歩中の街道の一角に謡曲「望月(中仙道守山宿 旅篭甲屋仇討ち物語り)」に出てくる甲屋跡の石碑を発見したのです。  
  千葉滋賀県人会の行事等で会員の方と話していると、謡曲を趣味としている方が、5,6人いらっしゃることがわかりました。今後謡曲を嗜む会員との一層の交流を深めていきたいと思います。

平成26年12月



ふるさとを想う
                                      横山  照(大津市出身)

  終戦の前年に、横浜の戸塚から親の郷里の滋賀県の大津に疎開し、母の両親の家にしばらく同居した。戦況が厳しさを増したために、庭に防空壕を掘り始めた。ある日、子供たちだけ先に昼ご飯を食べていると、ものすごく大きい爆発音がして、部屋の窓ガラスがビリビリと響き、皆驚いて、食卓の下に頭を突っ込んだ。後で、当時、軍需工場になっていた石山の東洋レーヨンに爆弾が落とされたことを知った。防空壕が完成する前に終戦になり、次の年に、小学校に入学し、三年生の一学期に家の引越しに伴い膳所小学校に転校した。学校の近くの線路向こうに茶臼山古墳があり、全校写生大会のとき、古墳の池のそばで、写生をしたり、授業のない時や、放課後等、皆でよく遊びに行ったことを覚えている。  
  8月末には、子供会の地蔵盆があり、町内の5,6か所にある石仏のお地蔵さんを一か所に集めて祭壇に並べ、町内会で花やお菓子などをお供えし、天幕を張った下で遊んで過ごしたことは、楽しい思い出である。  
  中学、高校は地元の学校に通い、大学を卒業して東洋レーヨンに就職した。 昭和37年頃には、会社はレーヨンの生産を止め、ナイロンやパイレンを製造していて、その後社名も東レに変わった。工場の北門を入った所に、兼平の鎧掛けの松があった。粟津の合戦で敵に追われ逃げてきた今井兼平が、休むために鎧を掛けたといわれる松で、現在の松は、何回か植え継がれたものであると聞く。  
  久しぶりに湖岸のホテルに泊まり、窓から下を見ると、朝日に輝く琵琶湖に小舟が浮かび、その向こうに比叡山と比良山に山々が連なる美しい光景に安らぎを覚えた。

平成26年12月




ふる里 日野のこと
                                         中田恵美子(日野市出身)

  昭和十八年生まれの私が、生まれ育った当時の日野を思い出すと、その頃は正直、日野の良さ、田舎の良さを感じぬまま、寧ろ都会に憧れていたかもしれません。子育て中は故郷を想う時間も少なかったと思います。今は日野に私の実家はありませんが、幸い主人も日野出身で、最近歳のせいでしょうか故郷を懐かしく思う事が増えました。又主人の実家の義弟が日野街並み保存の代表世話人として頑張っています。近年の日野の町興しぶりをご紹介させていただきます。  

  日野には八百年の歴史を持つW日野祭り“が五月三日に行われます。神輿や曳山十六基が綿向神社に出揃うこれは幼い頃から楽しみなお祭りでした。特に大窪、村井辺りでは渡御の通り道に面した家々の板塀に窓を切り、その曳山の行列を見物する”桟敷窓“と呼ばれる日野特有のものがあります。街並み保存の目的であるその”桟敷窓“を利用して春にはお雛様を飾り”日野ひな祭り紀行“として今年も沢山の観光客で賑ったようです。又秋には陶芸、日野椀、水墨画、木工等、日野出身の作家さんの作品を展示する”桟敷窓アート“として日野の街興しに奮闘しています。皆様帰省の際には是非この桟敷窓行事に合わせ、日野の町をお訪ね下さい。

平成26年6月




故郷離れ思うこと?
                                溝上 一生(東近江市(旧永源寺町)出身)

  少し汗ばむ程度石段を登りきると、山門の一部をさえぎるように深紅の紅葉が色鮮やかだったことを記憶しています。

  瑞石山永源寺は臨済宗永源寺派として全国百有余の末寺を統括する大本山です。また、紅葉の名所でもあり、シーズンには関西はもとより遠く関東から多くの紅葉狩りの観光客が訪れる地です。小生が18歳まで過ごした故郷、永源寺の町名由来はここにあります。

  また、この地を流れる愛知(えち)川は、別名音無川とも呼ばれ水の流れもおだやかで幼い頃は鮎を追いかけ、水遊びに興じた遊び場でした。その後川上にダムができ、そのおもむきは変わったものの、今も釣り客でにぎわっている、と風聞しています。

  また、鈴鹿山系のもと三重を県境とする広大な面積を有する町でもあります。名物はこんにゃくが有名で、歯ごたえ抜群、帰省の折には買い求め「雷(醤油と一味唐辛子のみの油炒めのこんにゃく)」を肴に一杯やるのも楽しみのひとつです。

  こんな故郷もいまや1市6町が合併、人口11万人を超える東近江市となり大きくイメージを変えつつあります。かといって、遠く離れ何かと面倒なことはありますが本籍を移そうと思ったことは一度もありません。故郷とはそんなものかも知れません。

  故郷を離れるきっかけは、中学時代の修学旅行で初めて東京の街を目にしたとき、何の根拠もありませんが「この地なら何かいいことがありそうだ」と思ったことが記憶のどこかに残っています。その後縁があり職を得ることができ夢が叶ったかは疑問ですが千葉に移り住んで35年あまりになります。佐倉の地を終の棲家に余生を楽しみたいと思っています。   





わが故郷のこと
                                          遠藤紀寛(米原市出身)

  わが故郷は米原市(平成17年の合併までは坂田郡近江町)宇賀野で、JRで米原 
から長浜に向かって最初の駅「坂田」のあるところです。
  天野川下流域に広がる水田地帯ですが、JRの新快速の運行や道路網の整備により
国道8 号線沿い一帯は住宅や商業施設の進出がめざましく往時ののどかな風景が一変
しています。
  ところで、湖国は歴史の宝庫と言われていますが、わが集落の西にも山内一豊の母 
法秀院の墓があります。
  織田信長の岩倉城攻めによって山内但馬守盛豊が自刃し、その妻法秀院は一豊ら息子達
を連れて各地を転々とし北近江宇賀野の土農・長野家に身を寄せ、そこで裁縫や行儀を
教えながら暮らしていましたが、裁縫の習い子だった近在の浅井家家臣若宮喜助友興の
娘千代のことを気に入り、一豊の妻に勧めやがて二人は結婚しました。
  一豊は長浜城主になり再三城内に母を迎えようとしましたが移ることなく住み慣れた
この地で生涯を閉じています。 
  法秀院死後約200年土佐の山内家から藩士が法秀院の墓について調べに来て整備を
行っており、さらに、墓碑は明治25年長浜警察署長に赴任した旧土佐藩の武士浜田源之
助の尽力で整えられ、その後、損傷が激しくなり平成9年に新たに建立されたのが現在の
五重塔であります。
  長野家は、近年まで当時のままの大きな茅葺の門も残っていましたが老朽化が進み
取り壊されています。また、駅のそばの坂田宮・岡神社は一豊が尊崇したことで知られ
ています。
  2 0 0 6 年の N H K 大河ドラマ 「 功名が辻 」 放映時には各地から多くの人が訪れ
たようであります。
                                               (平成26年4月)



生まれ育ったふるさと
                                   池内 孝(日野町出身)

  今年で高校を卒業し、生まれ育ったふるさとを離れて丁度50年になります。
近年では法事の時に帰郷するだけになりましたふるさとを紹介します。
生まれ育った地日野町大字鎌掛(かいがけ)は、地形的に周辺の村々から独立していたので昭和30年3月16日に日野町と合併するまでは蒲生郡鎌掛村で
した。
  村の周囲は北部を除いて山林が広がり、田畑がつづく250戸千人弱の田舎
です。
村の中を通る道路は三重県に通じる御代参街道として整備、鎌掛は脇宿に指定され発展しました。道路の両脇には扇屋・大黒屋など屋号で呼ばれる家が多く
建ち並んでいます。
  小学生時代に遠足で出掛けた鎌掛谷の斜面には、昭和6年国の天然記念物に指定された約2万本のホンシャクナゲの純木が群落しています。
町の花や県の花にシャクナゲ・ホンシャクナゲが選ばれているのは鎌掛谷のホ
ンシャクナゲ群落に因むものと言われております。
  毎年5月3日に開催される日野祭り(県指定無形民俗文化財)頃がホンシャ
クナゲの見頃時期でもあり来年にはふるさとを訪ねようかと思っております。
                                       (平成24年10月)


 
故郷は、遠きにありて・・・

                              岩崎 清士(概ね、八日市出身)

18で、故郷滋賀を後にして、大学レジャーランド東京生活、その後千葉で
の44年、親兄弟も他県に移り、親類縁者は往き帰も薄れ、偶のクラス会に帰
るのみ。縁は年々細くなり日々思い出は薄れゆき、セピアの色に染まれ行く。
  親の手に引かれ出かけた醒ヶ井養鱒場・彦根城、小学校徹夜で登った伊吹
山、中学校夏のキャンプは湖東山奥永源寺・近江八幡長命寺、野兎を追った
八日市沖野の飛行場、高校生初恋の人と歩いた百済、石山、三井の寺。
  先人の、「故郷は、遠きにありて想うもの・・・」、今になり帰つて見ても、
ところであんさんどちらさん、怪訝に問われて浦島太郎。
今じゃ親子3代千葉暮らし、地縁血縁蜘蛛の糸。さりながら、あなたの故郷何
処ですか、問われりゃやっぱり淡海の地。三つ子の魂なんとやら今も忘れぬ
「滋賀県民の歌」、どなたか覚えておいでかな。
  「比良の峰ゆく白い雲、緑に映える琵琶の水、機織る町に稲刈る村に・・・」
永らえて、終は淡海で眠りたい、心の何処かがそっと呟く。そんな声、女房に
聞かれりゃ大騒ぎ、なに寝ぼけたこと言ってんの。 やっぱり遠くから想って
いましょう。


  
                                       (平成24年10月)



ふるさとへの想い
                                  中野 紳一(日野町出身)

 私は昭和18年蒲生郡日野町に生まれ、18年間小学校から高校卒業までここ
で暮らしました。3年は絶対に帰ってこないと啖呵を切って出て来てしまい、独
りになると、故郷のことが思い出され図書館へ行っては日野町や滋賀県の出て
くる本を探しました。
  特に蒲生氏郷や日野商人の記載されている本は、見逃さないように借りてきて
読みました。
  自分が、これ等の立派な人たちの後輩だと思うと自信が付き、元気が出まし
た。他県の人に負けじと、歴史や、神社仏閣、観光地などを調べ、故郷の自慢
材料を出来るだけ仕込みました。同僚に(又中野のお国自慢が始まった)と呆
れられました。
  私はJR全線乗車を達成し、次のテーマを探して居た時、日野商人館の館長が
(いま江戸時代から続くお店の名簿を整理中)と聞き、日野商人の店を訪ねる
旅をすることにしました。関東地方が多いのですが、終着駅に在る町を何ヵ所
か尋ねました。今でこそ電車がありますが、明治以前は歩いて此処まで来られ
ていたのかと思うと、命がけの凄いことだと只々頭が下がりました。この様な
苦労をした人達を沢山出した、わが故郷を、大変誇りに思っています。

 
                                      (平成24年10月)    



離れて分かるふるさとの良さ

大谷 順子(長浜市出身)    


  私は昭和26年に長浜市で生まれ、小学校4年生まで長浜の祖母の元で育ち
ました。
  今から思えば、長浜での子ども時代はまるで江戸時代の暮らしのよう。長浜
駅のすぐ傍の家は茅葺き屋根で、お風呂は五右衛門風呂。水は井戸からくみ上
げ、煮炊きはもちろん薪。食事はほとんど自給自足で、祖母が育てた野菜や庭
で飼っている鶏の卵。時々琵琶湖のフナやコイやモロコ。両親や兄弟がいない
寂しさをなぐさめてくれたのは、晴れた日に威容を見せる伊吹山や青く澄んだ
琵琶湖でした。
  今でこそ長浜はまちおこしのモデルケースのように言われ、多くの観光客が
訪れる街になりましたが、その頃は地場産業の浜ちりめんや蚊帳の生産もきっ
と減少していたのでしょう。さびれた活気のない街でした。それでも毎年4月
の曳山まつりの時は街が急に元気になり、お囃子のしゃぎりの音が聞こえてく
ると心浮き立つものがありました。曳山の上で子ども歌舞伎が上演されますが、
女の子は曳山には乗せてもらえません。祖母にどうしても乗りたいとダダをこ
ねたのを覚えています。
  大人になり文学や歴史紀行、特に白洲正子の「かくれ里」などを読むように
なり、長浜や滋賀県がいかに歴史と文化に彩られた土地かを知るにつけ、ふる
さとの再発見をしたような思いです。
  湖北の子鮎や鴨も私を呼びます。
  長浜に住む姉には「他に行く所ないんか?」と言われながらも、毎年長浜に
は一度は帰り、県内の各地に足をのばします。
  琵琶湖も「早く帰ってこ〜い」と私を呼んでいますから。
  皆さまも近江再発見の旅にお出かけになりませんか?

(2012年6月)    




ふるさとの味

中谷弘美(彦根市出身)    


  彦根(旧犬上郡河瀬村)には高校卒業の昭和40年まで住んでいましたが、
その後はずっと関東住まい。私の生まれ育った家も今や空き家で、文字通り「心
のふるさと」になりつつあります。
  そんな私にとってふるさとと言えばやはり忘れられないのは「ふるさとの味」
です。滋賀県には美味しいものがたくさんありますが、私の一番のお好みは「赤
かぶらの糠漬け」。幼い頃から慣れ親しんだ味は「おふくろの味」にも通じるも
のですが、昔も今も私の大好物です。おふくろが元気な間は毎年自家製を送っ
てもらい、その後は彦根の漬物屋さんから購入し、私にとってはなくてはなら
ない「ふるさとの味」でした。 ところが3年程前に突然販売中止とのこと 、そ
の後ネットで探しても、塩漬けが多く、一度取り寄せた糠漬けも私の好みとは
全く違う味で、あの 「 ふるさとの味 」 は二度と口にすることができないのかな
…と半ば諦めていました。
  そんな折、今年2月の新年会の際に飲んだ勢いでずうずうしく、(当時の)滋
賀県東京事務所長東様に「赤かぶらの糠漬けを販売している店をご存じないで
すか? 」 とお聞きしたところ、「 調べてみます。」とのこと。 そしてなんと3日
後に自宅まで連絡をいただき販売店(甲良町の「法養寺特産部会」)を紹介して
いただきました。  もちろん喜び勇んで注文し、さっそく食してみたのですが、
これが私のイメージ通りの味。「ふるさとの味」に再会でき、本当に感激でした。
  東様には改めてありがとうございました。  そして 「赤かぶらの糠漬け」 が好
物だという皆様方、是非この冬には食してみてください。

 

(2012年6月)    


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