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滋賀県での思い出
                                      嶋田 建弘(旧虎姫町在住経験)

  滋賀県との関わりは父が旧制虎姫中学、新制虎姫高校の体育の教師として奉職
しましのでた幼少期、小学1年2学期から中学3年2学期まで旧・虎姫町で過
ごしました。故郷は千葉県茂原市ですが、房総千葉とは違った風光明媚で人情
味に溢れた周囲の方々の温かい雰囲気を母が気に入って、私が10歳の時に父
が亡くなりましたが私達兄弟姉妹を滋賀で育ててくれました。
小学生時代は父が作ってくれたバットとボール、キャッチャミット、ファース
トミットで虎姫町宮部神社の境内で三角ベースボールの野球に熱中し、夏休み
なると家の前の小川で宿題もそこそこに魚取りに夢中になりました。中学時代
は姉川で水浴びをした後で毛鉤と急ごしらえの竿で小鮎を沢山釣って帰って母
に美味しく料理してもらいました。私は戦時中6歳で肋膜を患い祖父が医者で
したのでペニシリンとリンゲルの治療のお陰で一命を取り留めました。虚弱体
質でしたが小学4,5年で伊吹先生に縄跳び、跳び箱の指導を受けて体力も少し
ずつ向上し、2番目の姉が男勝りで運動能力があって県大会でも活躍しました
ので、体育担当の広部先生が弟を鍛えようと無理矢理バレーボール部に所属さ
せ9人制の中衛センターでトス役で鍛えられました。前衛では八森君、横田君
かっこよく飛び跳ねてました。リレーの選手にも抜擢されて体力にも自信が付
きました。図工の先生には模型グライダーの滑空大会の参加で長浜市まで引率
して頂き上位入賞しました。また中学時代には楓先生に弁論の薫陶をうけて県
内各地で弁論大会に出場して数回優勝しました。吹奏楽部が創設されて学業成
績が良かったので無理矢理バリトンを担当させられました。八森君はアコーデ
オン担当でした。
中学では数学で清水先生に幾何で線1本で難解な図形に回答が得られるヒント
を教えられたのが鮮明でした。お陰様で数学は千葉に転校してからも好成績を
修められました。祖父(母親の父)が昭和28年に茂原で千葉県内5番目の老
人ホームを開設しましたので栄養士として母を呼び戻しましたので虎姫中学2
年2学期の12月下旬に茂原市立鶴江中学に転校し、千葉県立長生高校に入
学しました。
昭和60年頃、家内を連れて旧・虎姫町、長浜市、姉川、小谷城国友等を見て
回りました。家内は民家の前に流れている小川が川底が見える程に綺麗なのに
驚きました。中学時代に弁論大会で共に活躍した中尾様(旧姓・大村様)を長
浜市室町に訪ねて格式のある立派な家屋に家内も感銘しました。その後、大河
ドラマで長浜が放映された時に千葉ライオンズクラブの旅行研修会で中学で同
級の音羽様が嫁がれているロイヤルホテルに中尾様の紹介で宿泊し、長浜城、
国友、長浜市内見物、長浜曳山祭りを見学しました。
その後、歴史作家の武田健作様が私共の先祖の仁科盛信公の取材で茂原市の母
の実家を訪ねられ、滋賀県人会を紹介され入会しました。故郷の伝統文化の一
助にと「長浜曳山祭り」に昨年故郷納税をさせて頂きました。

平成28年11月



彦根に伝わるゲーム「カロム」
                                      植野克美(彦根市出身)

  10月27日、千葉滋賀県人会の催しで船橋港岸壁に静態保存されている「南
極観測船しらせ」船内見学ツアーに参加しました。
  その際、ガイド役の方から「滋賀県人会の方なら、ご縁のある南極観測隊の
著名メンバーをご存じでしょうか?」との質問があり、会員の中から「村山雅
美さん、西堀栄三郎さん」などのお名前が挙がりました。次いで、「長い航海で
乗員が無聊を慰める室内ゲームは?」と問われ、小生が直ちに「カロム」と答
えたのはたまたま彦根出身だったからです。
  「カロム」という室内ボードゲームは、日本中で彦根市のみで子供たちを中
心に行われている遊びで滋賀県出身の方でも意外にご存じない方が多いと思い
ます。
  8月下旬の地蔵盆などの際、小学生がお地蔵さんの近くでムシロやゴザを敷
き、日がな一日スイカやまくわ瓜などを食べたり、「カロム」を行っていたのを
懐かしく思い出します。
  カロムは、2人もしくは4人で行うゲームであり、キャロムやカルムなどと
も呼ばれます。
  12〜13世紀にかけてエジプトでその原型が確立されたと言われるこのゲ
ームは、その後英国でビリヤード(スヌーカー)に変わったとされ、日本には
ウィリアム・メレル・ヴォーリズがもたらしたのではないか、と言われています。
  ビリヤードのような盤上ゲームで、四角い盤の上に並んだ偏平な円筒形の木
製パック(赤と緑)に向け自陣から同サイズの自身のパック(自玉)を指で弾
き、自身と同色のパックに当て四隅のポケットに入れます。最後にジャック(大
玉)を入れた方が勝ちです。ご興味のある方は日本カロム協会のHPをご覧く
ださい。(参考資料:彦根市青年会議所内日本カロム協会HP)

平成28年11月






滋賀県の認知度
                                         野田繁樹(豊郷町出身)

  皆様、ご清栄のことと存じます。
今回、千葉滋賀県人会の会報に投稿するにあたり、まず熊本地震の被害に遭わ
れた方々にお見舞いを申し上げます。
二週間以上に亘り揺れが続き、被災地の県民の皆様方、生活に困っていらっし
ゃることと存じます。一日も早く通常の生活に戻ることを願っています。
(政府、九州、県、他府県、ボランティアなど一丸となっての協力が必要。)

さて、滋賀県の事で先般、県別の認知度が42位と聞き、驚きました。滋賀県
の面積は琵琶湖がほとんどだと大勢の人が思っているみたいです。県の方では
琵琶湖は6分の1しか占めていませんとPRしていますが、島根県、鳥取県がど
こか右か左か位置さえ認知していない一部の人がおるように、世間ではその程
度の認識しか無いようです。年一回の県人交流会(首都圏できばる「淡海の人
大交流会」)が品川プリンスホテルで開催され、知事及び知名人も参加されます
が、他府県に比べPRが少ない様に思われ、また、アンテナショップも同じでご
ざいます。
我々も滋賀の良いところをもっとPRしたいと思っています。
尚、神奈川県人会の会長井上氏は私の友人です。我が千葉県人会、埼玉県人会
を含め、各県人会が協力して滋賀県をPRしましょう。

平成28年5月



近江は父祖の地
                                         佐倉市  北川照夫

  近江は私の祖先の多くの人々が、500年に亘り生活してきた故郷である。
北川家は蒲生氏の一族であるとされ、室町時代の後期に蒲生から分かれ、北川
郷を領したと言う。以後は蒲生氏の郎党として日野や高宮に住んだらしい。言
葉が推測になるのは、明治になって彦根から横浜に移住した私の祖父母が関東
大震災に遭い、罹災死し、家も古文書、武具等、すべて焼失してしまったから
である。私の父は当時10才であり、祖先の事は知らなかったが、大叔父や親
戚から聞いたところによると、先祖は蒲生家の武将で在り、関が原では石田三
成の下で西軍として戦ったそうである。彦根藩士となったのは延宝5年(16
77)であるが、敵方であった為、知行は与えられず扶持米取で有ったという。
住まいは小道具町1丁目(今の彦根市役所の所)にあり、井伊直弼公の埋もれ
木舎とは近く、北川家八代、九代当主は能、謡の名手であったこともあり、交
流が有ったという。その関係か、直弼公が藩主になると取り立てられ、屋敷が
倍の広さになったとの事。
しかし、直弼の死後、逼塞を命じられ、屋敷を追い出されたという事である。
九代目は天寧寺のすぐ下の、里根七番屋敷に住居を移し、八代目の墓を天寧寺
に建てた。北川家は日野以来、浄土真宗本願寺派の信者であるが、八代目と九
代目だけが曹洞宗天寧寺に葬られている。しかし、私の祖父母も罹災死したた
め墓を持つことが出来ず、ここに葬られている。このことを、知ったのもごく
最近で、以後、京都へ行くときには天寧寺に寄ることにしている。新幹線では
必ず琵琶湖の見える席に座り、湖を見ながら先祖を偲んでいる。近江は私の心
の故郷である。

平成28年5月



温か古里とおくなる!
                                         脇阪 亨(長浜市出身)

  千葉県に在住して53年が経ちました。千葉県は気候温暖、都心に近いが故の
数々のメリットがありますが、自分が農家の長男であるという意識があってか、
定年後は滋賀へ帰ることを妻に言い含めておりました。しかし50歳の時に故あ
って自営業を始めてからは顧問先の関係から帰郷は不可となり、69才で家を建
て直し墓まで用意してしまいました。
  その少し前に、息子一家が転勤のため近江八幡市に住むようになりましたが、
自分の帰郷はあきらめざるを得ませんでした。これにはかなりの覚悟が必要で
した。
  今は滋賀の空気に触れることを慰めとしています。毎年秋になると、新米は
“近江米”(こしひかり30s)、高時川(妹川)の外畑(堤防の水流側)で育
てられた“牛蒡・とろろ芋”実家の屋敷になった“柿”を食し、さらには正月
のおせちには“鮒ずし”をいただいています。
  先日高校の同級会が長浜市で催され、懐かしい面々に会ってきましたが、駅
前に“モンデクール”というショピングセンターが本年2月に開店しています。
私が小中学生の時は、学校へ行くとき母親は、行ってらっしゃいでなく“早よ
うもどらんせ”でした。早く無事に帰ってきなさいよということです。無事に
帰ってくることを祈り、無事を促す滋賀県の人々のやさしい心根を“モンデク
ール”が思い起こしてくれました。
  いつまでも滋賀の品々を送ってもらうことは難しくなります。しかし何にも
勝る故郷の味は、いつまでも活動が続く“千葉 滋賀県人会”です。よろしく
お願い致します。

平成27年12月



私のふるさと
                                         井上嘉平治(守山出身)

  四方山の景色と広々とした田圃の中に、在所がある。そんな野洲郡小津村という小さな村に、私は生れました。現在は守山市になっています。春は麦とれんげが咲きほこり、空ではひばりがさえずり、あちこちで田植え前の作業に牛が活躍していました。一年もすると、近江牛肉用の予備軍として、別の子牛と交換され別の育て方をされるそうです。そんな田舎生まれの私は、在学中は勉強より農業の手伝いの時間の方が多かったように思います。  
  旅行の思い出も、小学校の遠足や、中学高校の卒業旅行位で、私的な旅の思い出は余りありません。その代り御輿の出る村のまつりや盆踊、そして旧中仙道守山宿の守山市(いち)、夏のホタル祭り、今は行われていないと思いますが、当時はそこそこ大きな行事でありました。高校卒業を控え、東京に就職が決まり、昭和31年春上京、数年後入社の東京生まれの女性と結婚しました。結婚後、女房が大変滋賀が気に入り、実家の冠婚葬祭や、夏休暇を利用して、湖国近江の神社仏閣、戦国武将ゆかりの地や景勝地の大方を訪れました。その素晴らしさに感動した様です。  
  最近は滋賀に行く機会が減り残念ですが、先年久しぶりに地元守山を散策していて感激したことがありました。私は在職中から謡曲を趣味としており、謡曲には滋賀が舞台になっているものが数多くありますが、たまたま散歩中の街道の一角に謡曲「望月(中仙道守山宿 旅篭甲屋仇討ち物語り)」に出てくる甲屋跡の石碑を発見したのです。  
  千葉滋賀県人会の行事等で会員の方と話していると、謡曲を趣味としている方が、5,6人いらっしゃることがわかりました。今後謡曲を嗜む会員との一層の交流を深めていきたいと思います。

平成26年12月



ふるさとを想う
                                      横山  照(大津市出身)

  終戦の前年に、横浜の戸塚から親の郷里の滋賀県の大津に疎開し、母の両親の家にしばらく同居した。戦況が厳しさを増したために、庭に防空壕を掘り始めた。ある日、子供たちだけ先に昼ご飯を食べていると、ものすごく大きい爆発音がして、部屋の窓ガラスがビリビリと響き、皆驚いて、食卓の下に頭を突っ込んだ。後で、当時、軍需工場になっていた石山の東洋レーヨンに爆弾が落とされたことを知った。防空壕が完成する前に終戦になり、次の年に、小学校に入学し、三年生の一学期に家の引越しに伴い膳所小学校に転校した。学校の近くの線路向こうに茶臼山古墳があり、全校写生大会のとき、古墳の池のそばで、写生をしたり、授業のない時や、放課後等、皆でよく遊びに行ったことを覚えている。  
  8月末には、子供会の地蔵盆があり、町内の5,6か所にある石仏のお地蔵さんを一か所に集めて祭壇に並べ、町内会で花やお菓子などをお供えし、天幕を張った下で遊んで過ごしたことは、楽しい思い出である。  
  中学、高校は地元の学校に通い、大学を卒業して東洋レーヨンに就職した。 昭和37年頃には、会社はレーヨンの生産を止め、ナイロンやパイレンを製造していて、その後社名も東レに変わった。工場の北門を入った所に、兼平の鎧掛けの松があった。粟津の合戦で敵に追われ逃げてきた今井兼平が、休むために鎧を掛けたといわれる松で、現在の松は、何回か植え継がれたものであると聞く。  
  久しぶりに湖岸のホテルに泊まり、窓から下を見ると、朝日に輝く琵琶湖に小舟が浮かび、その向こうに比叡山と比良山に山々が連なる美しい光景に安らぎを覚えた。

平成26年12月




ふる里 日野のこと
                                         中田恵美子(日野市出身)

  昭和十八年生まれの私が、生まれ育った当時の日野を思い出すと、その頃は正直、日野の良さ、田舎の良さを感じぬまま、寧ろ都会に憧れていたかもしれません。子育て中は故郷を想う時間も少なかったと思います。今は日野に私の実家はありませんが、幸い主人も日野出身で、最近歳のせいでしょうか故郷を懐かしく思う事が増えました。又主人の実家の義弟が日野街並み保存の代表世話人として頑張っています。近年の日野の町興しぶりをご紹介させていただきます。  

  日野には八百年の歴史を持つW日野祭り“が五月三日に行われます。神輿や曳山十六基が綿向神社に出揃うこれは幼い頃から楽しみなお祭りでした。特に大窪、村井辺りでは渡御の通り道に面した家々の板塀に窓を切り、その曳山の行列を見物する”桟敷窓“と呼ばれる日野特有のものがあります。街並み保存の目的であるその”桟敷窓“を利用して春にはお雛様を飾り”日野ひな祭り紀行“として今年も沢山の観光客で賑ったようです。又秋には陶芸、日野椀、水墨画、木工等、日野出身の作家さんの作品を展示する”桟敷窓アート“として日野の街興しに奮闘しています。皆様帰省の際には是非この桟敷窓行事に合わせ、日野の町をお訪ね下さい。

平成26年6月




故郷離れ思うこと?
                                溝上 一生(東近江市(旧永源寺町)出身)

  少し汗ばむ程度石段を登りきると、山門の一部をさえぎるように深紅の紅葉が色鮮やかだったことを記憶しています。

  瑞石山永源寺は臨済宗永源寺派として全国百有余の末寺を統括する大本山です。また、紅葉の名所でもあり、シーズンには関西はもとより遠く関東から多くの紅葉狩りの観光客が訪れる地です。小生が18歳まで過ごした故郷、永源寺の町名由来はここにあります。

  また、この地を流れる愛知(えち)川は、別名音無川とも呼ばれ水の流れもおだやかで幼い頃は鮎を追いかけ、水遊びに興じた遊び場でした。その後川上にダムができ、そのおもむきは変わったものの、今も釣り客でにぎわっている、と風聞しています。

  また、鈴鹿山系のもと三重を県境とする広大な面積を有する町でもあります。名物はこんにゃくが有名で、歯ごたえ抜群、帰省の折には買い求め「雷(醤油と一味唐辛子のみの油炒めのこんにゃく)」を肴に一杯やるのも楽しみのひとつです。

  こんな故郷もいまや1市6町が合併、人口11万人を超える東近江市となり大きくイメージを変えつつあります。かといって、遠く離れ何かと面倒なことはありますが本籍を移そうと思ったことは一度もありません。故郷とはそんなものかも知れません。

  故郷を離れるきっかけは、中学時代の修学旅行で初めて東京の街を目にしたとき、何の根拠もありませんが「この地なら何かいいことがありそうだ」と思ったことが記憶のどこかに残っています。その後縁があり職を得ることができ夢が叶ったかは疑問ですが千葉に移り住んで35年あまりになります。佐倉の地を終の棲家に余生を楽しみたいと思っています。   





わが故郷のこと
                                          遠藤紀寛(米原市出身)

  わが故郷は米原市(平成17年の合併までは坂田郡近江町)宇賀野で、JRで米原 
から長浜に向かって最初の駅「坂田」のあるところです。
  天野川下流域に広がる水田地帯ですが、JRの新快速の運行や道路網の整備により
国道8 号線沿い一帯は住宅や商業施設の進出がめざましく往時ののどかな風景が一変
しています。
  ところで、湖国は歴史の宝庫と言われていますが、わが集落の西にも山内一豊の母 
法秀院の墓があります。
  織田信長の岩倉城攻めによって山内但馬守盛豊が自刃し、その妻法秀院は一豊ら息子達
を連れて各地を転々とし北近江宇賀野の土農・長野家に身を寄せ、そこで裁縫や行儀を
教えながら暮らしていましたが、裁縫の習い子だった近在の浅井家家臣若宮喜助友興の
娘千代のことを気に入り、一豊の妻に勧めやがて二人は結婚しました。
  一豊は長浜城主になり再三城内に母を迎えようとしましたが移ることなく住み慣れた
この地で生涯を閉じています。 
  法秀院死後約200年土佐の山内家から藩士が法秀院の墓について調べに来て整備を
行っており、さらに、墓碑は明治25年長浜警察署長に赴任した旧土佐藩の武士浜田源之
助の尽力で整えられ、その後、損傷が激しくなり平成9年に新たに建立されたのが現在の
五重塔であります。
  長野家は、近年まで当時のままの大きな茅葺の門も残っていましたが老朽化が進み
取り壊されています。また、駅のそばの坂田宮・岡神社は一豊が尊崇したことで知られ
ています。
  2 0 0 6 年の N H K 大河ドラマ 「 功名が辻 」 放映時には各地から多くの人が訪れ
たようであります。
                                               (平成26年4月)



生まれ育ったふるさと
                                   池内 孝(日野町出身)

  今年で高校を卒業し、生まれ育ったふるさとを離れて丁度50年になります。
近年では法事の時に帰郷するだけになりましたふるさとを紹介します。
生まれ育った地日野町大字鎌掛(かいがけ)は、地形的に周辺の村々から独立していたので昭和30年3月16日に日野町と合併するまでは蒲生郡鎌掛村で
した。
  村の周囲は北部を除いて山林が広がり、田畑がつづく250戸千人弱の田舎
です。
村の中を通る道路は三重県に通じる御代参街道として整備、鎌掛は脇宿に指定され発展しました。道路の両脇には扇屋・大黒屋など屋号で呼ばれる家が多く
建ち並んでいます。
  小学生時代に遠足で出掛けた鎌掛谷の斜面には、昭和6年国の天然記念物に指定された約2万本のホンシャクナゲの純木が群落しています。
町の花や県の花にシャクナゲ・ホンシャクナゲが選ばれているのは鎌掛谷のホ
ンシャクナゲ群落に因むものと言われております。
  毎年5月3日に開催される日野祭り(県指定無形民俗文化財)頃がホンシャ
クナゲの見頃時期でもあり来年にはふるさとを訪ねようかと思っております。
                                       (平成24年10月)


 
故郷は、遠きにありて・・・

                              岩崎 清士(概ね、八日市出身)

18で、故郷滋賀を後にして、大学レジャーランド東京生活、その後千葉で
の44年、親兄弟も他県に移り、親類縁者は往き帰も薄れ、偶のクラス会に帰
るのみ。縁は年々細くなり日々思い出は薄れゆき、セピアの色に染まれ行く。
  親の手に引かれ出かけた醒ヶ井養鱒場・彦根城、小学校徹夜で登った伊吹
山、中学校夏のキャンプは湖東山奥永源寺・近江八幡長命寺、野兎を追った
八日市沖野の飛行場、高校生初恋の人と歩いた百済、石山、三井の寺。
  先人の、「故郷は、遠きにありて想うもの・・・」、今になり帰つて見ても、
ところであんさんどちらさん、怪訝に問われて浦島太郎。
今じゃ親子3代千葉暮らし、地縁血縁蜘蛛の糸。さりながら、あなたの故郷何
処ですか、問われりゃやっぱり淡海の地。三つ子の魂なんとやら今も忘れぬ
「滋賀県民の歌」、どなたか覚えておいでかな。
  「比良の峰ゆく白い雲、緑に映える琵琶の水、機織る町に稲刈る村に・・・」
永らえて、終は淡海で眠りたい、心の何処かがそっと呟く。そんな声、女房に
聞かれりゃ大騒ぎ、なに寝ぼけたこと言ってんの。 やっぱり遠くから想って
いましょう。


  
                                       (平成24年10月)



ふるさとへの想い
                                  中野 紳一(日野町出身)

 私は昭和18年蒲生郡日野町に生まれ、18年間小学校から高校卒業までここ
で暮らしました。3年は絶対に帰ってこないと啖呵を切って出て来てしまい、独
りになると、故郷のことが思い出され図書館へ行っては日野町や滋賀県の出て
くる本を探しました。
  特に蒲生氏郷や日野商人の記載されている本は、見逃さないように借りてきて
読みました。
  自分が、これ等の立派な人たちの後輩だと思うと自信が付き、元気が出まし
た。他県の人に負けじと、歴史や、神社仏閣、観光地などを調べ、故郷の自慢
材料を出来るだけ仕込みました。同僚に(又中野のお国自慢が始まった)と呆
れられました。
  私はJR全線乗車を達成し、次のテーマを探して居た時、日野商人館の館長が
(いま江戸時代から続くお店の名簿を整理中)と聞き、日野商人の店を訪ねる
旅をすることにしました。関東地方が多いのですが、終着駅に在る町を何ヵ所
か尋ねました。今でこそ電車がありますが、明治以前は歩いて此処まで来られ
ていたのかと思うと、命がけの凄いことだと只々頭が下がりました。この様な
苦労をした人達を沢山出した、わが故郷を、大変誇りに思っています。

 
                                      (平成24年10月)    



離れて分かるふるさとの良さ

大谷 順子(長浜市出身)    


  私は昭和26年に長浜市で生まれ、小学校4年生まで長浜の祖母の元で育ち
ました。
  今から思えば、長浜での子ども時代はまるで江戸時代の暮らしのよう。長浜
駅のすぐ傍の家は茅葺き屋根で、お風呂は五右衛門風呂。水は井戸からくみ上
げ、煮炊きはもちろん薪。食事はほとんど自給自足で、祖母が育てた野菜や庭
で飼っている鶏の卵。時々琵琶湖のフナやコイやモロコ。両親や兄弟がいない
寂しさをなぐさめてくれたのは、晴れた日に威容を見せる伊吹山や青く澄んだ
琵琶湖でした。
  今でこそ長浜はまちおこしのモデルケースのように言われ、多くの観光客が
訪れる街になりましたが、その頃は地場産業の浜ちりめんや蚊帳の生産もきっ
と減少していたのでしょう。さびれた活気のない街でした。それでも毎年4月
の曳山まつりの時は街が急に元気になり、お囃子のしゃぎりの音が聞こえてく
ると心浮き立つものがありました。曳山の上で子ども歌舞伎が上演されますが、
女の子は曳山には乗せてもらえません。祖母にどうしても乗りたいとダダをこ
ねたのを覚えています。
  大人になり文学や歴史紀行、特に白洲正子の「かくれ里」などを読むように
なり、長浜や滋賀県がいかに歴史と文化に彩られた土地かを知るにつけ、ふる
さとの再発見をしたような思いです。
  湖北の子鮎や鴨も私を呼びます。
  長浜に住む姉には「他に行く所ないんか?」と言われながらも、毎年長浜に
は一度は帰り、県内の各地に足をのばします。
  琵琶湖も「早く帰ってこ〜い」と私を呼んでいますから。
  皆さまも近江再発見の旅にお出かけになりませんか?

(2012年6月)    




ふるさとの味

中谷弘美(彦根市出身)    


  彦根(旧犬上郡河瀬村)には高校卒業の昭和40年まで住んでいましたが、
その後はずっと関東住まい。私の生まれ育った家も今や空き家で、文字通り「心
のふるさと」になりつつあります。
  そんな私にとってふるさとと言えばやはり忘れられないのは「ふるさとの味」
です。滋賀県には美味しいものがたくさんありますが、私の一番のお好みは「赤
かぶらの糠漬け」。幼い頃から慣れ親しんだ味は「おふくろの味」にも通じるも
のですが、昔も今も私の大好物です。おふくろが元気な間は毎年自家製を送っ
てもらい、その後は彦根の漬物屋さんから購入し、私にとってはなくてはなら
ない「ふるさとの味」でした。 ところが3年程前に突然販売中止とのこと 、そ
の後ネットで探しても、塩漬けが多く、一度取り寄せた糠漬けも私の好みとは
全く違う味で、あの 「 ふるさとの味 」 は二度と口にすることができないのかな
…と半ば諦めていました。
  そんな折、今年2月の新年会の際に飲んだ勢いでずうずうしく、(当時の)滋
賀県東京事務所長東様に「赤かぶらの糠漬けを販売している店をご存じないで
すか? 」 とお聞きしたところ、「 調べてみます。」とのこと。 そしてなんと3日
後に自宅まで連絡をいただき販売店(甲良町の「法養寺特産部会」)を紹介して
いただきました。  もちろん喜び勇んで注文し、さっそく食してみたのですが、
これが私のイメージ通りの味。「ふるさとの味」に再会でき、本当に感激でした。
  東様には改めてありがとうございました。  そして 「赤かぶらの糠漬け」 が好
物だという皆様方、是非この冬には食してみてください。

 

(2012年6月)    


   
 
   




故郷彦根について

石田和市郎(いしだ かずいちろう)(彦根市出身)           

私が彦根におりましたのは昭和23年4月までです。

上京前、ある宗教団体の教祖の話によると「彦根の彦は男性を現すので、男根と読み取る
ことが出来る」との話を聞いたことがあります。何故そんな地名になったのかは解りませんし、
こじつけであろうと思います。  

彦根にはご存じ彦根城があり、近くには石田三成の居城であった佐和山城跡があります。
国宝彦根城は建築にあたり他の建築物の再利用で賄われた部分があり、門は佐和山城の門を
移築したものだそうです。私の子供の頃はいつでも自由に城内へ入ることが出来、時々一時を
過ごしておりました。市内は道幅が狭く古い建物の2階は物置程度の高さで二重天井になって
いませんでした。おそらく当時は物置としての用途で、高いところから見下ろすことは許され
なかったのではないでしょうか。

 現在も彦根には私の実家や親戚があります。今まで帰省しても市内を歩くことがありません
でした。2年ほど前に親戚に不幸があり、葬儀出席前に町を散策してみたら、一部ではあります
が道幅も広くなり、記憶にない道もあり、建物も立派になって浦島太郎の感じがしました。
また近い内に思い出のある地を訪ねようと思っております。  

(2010年6月 会報10号より)      

 


琵琶湖周航の歌

松室慈孝(まつむら じこう)(長浜市高月町出身)           

  県人会の終わりにこの歌を合唱すると、瞬時に半世紀を越える学生時代に戻り懐かしさに
胸が詰まります。

昭和33年の夏、普段練習に使うボートでなく固定席の舟でこの歌そのままの琵琶湖一周を
やりました。石山寺下の艇庫を出て大津、堅田を過ぎ、今津近くの村の集会所で一泊、翌日は
湖の一番広い竹生島の横をかすめ姉川の河口から長浜彦根を目指しましたが、風に煽られ
米原近くで葦原に避難し付近の小屋で寝ました。

三日目は多景島を目指し岩だけの島を見て南下、その日に帰り着きましたが忘れ得ぬ琵琶湖
の思い出です。

故郷は湖北の高月町で生家は渡岸寺十一面観音像がある向源寺で兄が住職を勤めています。
目に浮かぶ風景は東の伊吹山と整然と区画された田圃、畦に植わったハンノキの列です。
記憶に沁み込んだこの畦道や小川もハンノキも今では圃場整備でまるで昔と違った景色に
なりましたが夢に出て来る家や田圃は幼い頃のままです。

この地で同じ中学高校を過ごした人が現会長の小野さんで一年先輩、事務局長の新木さんは
同級生です。不思議なご縁でこの千葉で懐かしい人に会えるのも県人会のお陰と感謝して
おります。        

(2010年6月 会報10号より)      

 


蘇った八幡掘

吉村 勉(よしむら つとむ)(近江八幡市出身)           

  八幡堀のボテ(タナゴ)釣りが、子供の頃の欠かせない遊びのひとつでした。堀の水質は、
当時既に悪くなり始め、食用の魚釣りは近郊に出かけなければなりませんでした。

  私が近江八幡を後にする昭和30年代初めの頃、春先には、琵琶湖に注ぐ近郊の河川の畔に
植えられた柳の根に産卵のために、遡上するモロコがよく釣れました。卵をいっぱい抱いた
モロコを炭火で焼き、味付けした卵黄をつけ、再度焼く付け焼きは絶品でした。

  昭和40年ごろ、たまたま帰省した時に見た八幡掘は、雑草とヘドロで埋まり、釣り糸を垂れる
どころか、悪臭を放ちガスが噴出する始末でした。一時は埋め立てて駐車場にする案すら
出ていたようですが、堀は埋め立てた時から後悔が始まります。

  秀次が400年前に造り、かつて三百石の荷船が通い、商都の礎となった八幡堀を何としても
蘇らせるべく、市民が立ち上がりました。市民のボランティア活動等、懸命の努力が行政を
動かし、浚渫・河岸の整備が行われ見事に蘇ったのです。平成18年には国の重要文化的景観に
指定されました。

  近江八幡を訪ねられたら、八幡堀のほか、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されて
いる新町通り、永原町通り、さらには百数年前に来日し帰化した米人ヴォーリズ設計の建築物
(八幡商業高校、池田町洋館街等)をぜひご覧になってください。
   

(2009年12月 会報第9号より)      



夢は湖国の十一面観音めぐり

根本紀美子(ねもときみこ)(大津市出身)           

  私は2007年の春から、放送大学のテニスサークルの女性仲間7人で、中山道を歩いています。
高山彦九郎の坐像がある三条大橋から歩き始め、昔おいしい精進料理をいただいた月心寺の
前を通って大津泊まり。次の日は義仲寺に寄り私の住んでいた膳所へ。膳所神社の門は
膳所城の遺構だというのも今回知りました。瀬田の唐橋を通り野洲泊まり、という具合です。

  歩くだけでなく竹生島に渡ったり、彦根城では1日遊び、ちょうど満月の夜、虫の声とお琴を聞か
せてもらい幸せでした。冬はお江戸から日帰りを繰り返し、あと長野県を残すのみです。仲間の
言うことに、近江の方々はゆったりとしていて優しいそうです。土地が人間を育てるのでしょう。

  私の夢は足腰丈夫なうちに琵琶湖に戻り、十一面観音めぐりをすることです。渡岸寺の観音様に
上野でお会いできて嬉しかった!! 皆さん、井上靖の「星と祭」を読まれましたか?滋賀県には
たくさんのお寺と仏像が守られているんですね。そしてもう1冊、芝木好子の「群青の湖」。
湖北琵琶湖の神秘的な美しさ、近江八幡の古いしきたりの話など、この2冊が私の愛読書です。
琵琶湖が見たくなると、今森光彦の「藍意宇宙―琵琶湖水系をめぐる」をぺらぺらとめくります。

  5歳から20年間育ててくれた琵琶湖。これからも永遠に美しく、人々を癒し続けてほしいものです。     
   

(2009年12月 会報第9号より)      



40年振りの友垣

新納瑞穂(にいろみずほ)(日野町出身)           

  琵琶湖に注ぐ日野川の上流に位置する日野(蒲生氏郷の生誕地)の自宅周辺の野道を
よちよち歩きして以来、高校時代までを過ごした故郷の風景を、40年の星霜を経て
目の当たりにすることが出来たのは、4年前の中学同級の慰安旅行(伊勢)がきっかけでした。

  終戦間際の昭和20年4月に、横浜に住んでいた両親が、東京大空襲の余波で強制疎開を
余儀なくされ、疎開先を探していたところ、父親が以前奉職していた日野高等女学校
(現  日野高校)に温かく迎えていただいたと聞いています。

  その後、私は東京の大学へ進み、家族も昭和41年に東京へ引っ越し、また就職後も
通常土・日曜に実施される中学、高校の同窓会や同級会に仕事の関係で参加することが
できず、日野へ行く機会も無くずっと疎遠になっていました。

  還暦旅行の案内が届いたのは、仕事に少し時間的な余裕の出来た5年前のことで、翌春、
約40年振りに恐る恐る参加してみると、最初は誰が誰か殆ど判りませんでしたが、
相手の顔をよく観察すると次第に当時の面影が蘇り半世紀近くのブランクが一気に解消・・・

  以来、新しいカレンダーが届くと、必ず5/3(日野祭)と11/中旬の年2回の「帰郷」を
書き込みます。
   

(2009年8月 会報第8号より)      



ふる里の歴史に憶う

田中信夫(たなかのぶお)(信楽町出身)           

  今年の新年会で、回り順の自己紹介のおり、つい風呂敷を拡げ過ぎて皆さんの大笑いを
誘った後日談です(一部再録)。

  私の原籍は、滋賀県甲賀郡雲井村字牧です。ご存じ!NHK大阪が報じる冬の最低気温は
決まって信楽です。小学校時代観測で五葉箱などを扱った経験からマイナス15度はざらでした。
謎めいた話ですが、この寒い信楽谷と呼ばれる山中に奈良時代聖武天皇の御代、皇居
紫香楽宮が造営された歴史があります。

  御所跡はもちろん、村名の雲井、地名には内裏野、宮町、勅旨があり、私の生地は
甲賀牧に由来する牧です。
今、周辺は緑深い山々ですが、少年時代の記憶は地肌むきだしの禿山ばかりで、
往時宮殿など建築用材切り出しの名残のようです。  

  もう一つの歴史は古代に遡ります。第11代垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が天照大神の
御杖代(斎宮)として、美濃・近江など鎮座の地を求めた巡歴の故地に、郷里「淡海国
甲可日雲宮」に4年間奉斎したと伊勢神宮の「倭姫命世紀」に残されています。
生家はその「日雲神社」の氏子総代でした。

(2009年4月 会報第7号より)      



懐かしの浜大津

田村宏一(たむらこういち)(大津市出身)           

  私は小さい頃、浜大津の近くに住んでいました。

  自宅の2階からは旧琵琶湖ホテル、比叡山、三上山等が望めました。
休日には遊覧船が軍艦マーチを放送しながら出航して行きました。
堅田、坂本、穴村等を巡る定期船も見えました。

  ホテル紅葉は当初、貸し別荘でスタートしましたが、その埋立工事を貸しボートから
見た記憶があります。
浜大津の岸壁にはクレーンもあり、小さい荷船の船着場には県内から運ばれた薪炭、
川砂等が積まれていました。

  しかし、戦争とともに観光遊覧は休止、物資の流通もなくなりました。
戦後、埋立により湖岸は沖合いへ遠くなりました。
観光は復活しましたが、旧市街はさびれたままで誠に寂しいことです。

  2005年に上京50周年の里帰りをした時、浜大津に昔からある森野写真館に立ち寄って、
昔の浜大津界隈の写真がないかを聞いたところ、たくさん残っていました。
思い出深い場面を10枚ほどプリントしてもらい、大切にしています。

  大阪の兄にも送ったところ、大変懐かしがってくれました。
皆様も帰郷された時、地元の写真館を覗かれてはいかがですか。
懐かしい場面が残されているかも知れませんよ。

(2009年4月 会報第7号より)      

   

近江の思い出

森中小三郎(もりなかこさぶろう)(近江八幡市出身)           

  私は滋賀県出身としていますが、正確には父が近江八幡出身です。そのため小さい時から
1人で東海道線各駅停車の鈍行に揺られ、学期末の春、夏、冬、延々12時間かけて祖父母、
叔父、叔母が暮らす八幡に帰省していました。戦後復興間もない時期で殺伐とした面も残る
時代であり、旅行そのものは決して楽しいものではなく、リスクを伴うものだったと記憶しています。

  そんな状況の中で、あえて私を一人旅させた父の思いを考えると、戦時中も含めて混乱する
さなか、親を故郷に残し母と東京で頑張った者として、私を親元に定期的に送り込むことが、
父なりの滋賀に住む父母、兄弟姉妹に対する孝行だったのかと考えます。休み中の宿題を
含め、身の回りのことも父母よりも何かと叔父、叔母のお世話になって過ごした思い出多き
ふるさとです。

  滋賀の家の周りには小川があり、メダカやザリガニとりをしたり、小学校の庭では近所の
子供たちと野球に興じたり、叔父が田んぼに出ている時は叔母と一緒に弁当を持って叔父の
手伝い、いや邪魔をしに行ったり、結構身体も鍛えることもできました。また義理の叔父に
連れられて、琵琶湖の湖水に親しみ、竹生島、大津、坂本、石山寺巡りや見学、長命寺湖水
浴場での水泳等々、楽しく見聞も広めることができ、思い出をたくさんもらいました。

  父も13年前になくなり、少年時代に面倒かけた近江の叔父叔母も年々歳を重ね、なくなる方も
増え、最近は八幡への足も遠のきがちですが、千葉の県人会の皆様とのご縁を機に、また
故郷近江へ行きたいと考えています。

(2008年11月 会報第6号より)      

   

思い出と近況

園川 裕(そのかわ ゆたか)(水口町出身)           

  滋賀県で生まれ育ち、また比較的厳格な両親共に教師の家庭に育ちながら、何故か
千葉に移り住み、事業を始めて50年が経過しました。蛙の子は蛙で、戦後の新制度
移行の混乱期に学生時代2年間、週2日のアルバイトで信楽中学で英語を教える教壇に
立つという経験をしました。

  千葉ピーナツ株式会社という社名を見れば、業務の内容がすべて分かる会社を創立して
約40年。10年ほど前に優良申告法人という金看板を東京国税局より頂き県内13店舗の
売店をかかえ何とか順調に推移しております。幸い健康に恵まれ齢78歳でなお第一線に
立ち、1日1万歩を実行し、一生元気、一生現役を貫いて悔いのない人生を送っていると
自負しております。

  しかし、幾つになっても故郷のことは忘れることが出来ず,鮒寿司、日野菜漬けなどには
目がなく通信販売で買い求め、思いを馳せております。県人会会合の最後に皆で肩を
組んで合唱した「琵琶湖周航の歌」には歌いながら何か熱いものがこみ上げジーンと来る
ものがありました。

(2008年11月 会報第6号より)      

   

私と滋賀

前川尚美(まえかわなおよし)(元滋賀県副知事)           

  山紫水明、といえば滋賀のことだ、と思っていた。DNAの故か、子供心に憧れに近い
ものがあった。それが、60年代前半と80年代前後、足掛け10年も大津に住むことができた。
果報というほかはない。

  最初の大津時代は、豊かな自然と親しみ、友好を深めるうちに瞬く間に過ぎた。
その頃、国民所得倍増計画がスタートした。県庁で時の経済企画庁長官迫水氏の
説明があり、職員の期待と意気が俄かに高まった。真に劇的な瞬間であり、
これで日本の進むべき道が定まったと思ったものだ。

  二度目の大津住まいは、高度成長後の環境問題が深刻化した時期であった。
着任直後に発生した琵琶湖初の赤潮を、異臭と共に今でも思い出す。 これを機に、
琵琶湖研究所の創設、粉石けん運動、琵琶湖富栄養化防止条例の制定など、
県民あげての環境対策が進んだ。しかし、一旦破壊された自然環境の復元は、
一朝一夕には成らない。

  そして今、琵琶湖は、地球温暖化に苦しむという。1日も早く元の山紫水明を取り戻し、
さらに豊かな故郷を実現するため、県人会の皆様と手を携えて歩み続けたいものと、
心から願っている。

(2008年6月 会報第5号より)      

   

ふるさとを思う

谷口勝己(たにぐちまさみ)(竜王町出身)           

  ふるさとは、誰にとってもふるさとである。想い出が一杯詰まり、懐かしく、恋しく思うもの。
幼なじみの追憶(おもいで)は、瞼を閉じれば、山であり、川であり、人であり、家族であり、
走馬灯の如く様々な記憶が蘇って来る。

  歴史を顧みれば、先人達が様々な時代を生き抜き、後世に大きな功績を残してきた。
特に近江の国は戦乱を乗り越え、近江商人として、知恵と体験から、立派に“三方よし”の
精神を受け継ぎ、今日の発展に寄与し、企業理念として称えられている。

  昨年11月、県人会世界大会に多くの方々が世界各地より参加された。私も参加し、近況を
語り合い、近江商人の精神を誇りに思い、ふるさとを離れた。

  ふるさとは、誰にとってもふるさとであり、生きる力を与えてくれる。私もふるさとに元気を
もらい、明日に向かって、残された命を、地域の振興に一層邁進していくつもりである。

(2008年6月 会報第5号より)      

   
   
若き日の決断

中村 浩(なかむら ひろし)(近江八幡市出身)           

  一昨年古稀を迎えたが、若き日の思い出は強烈で色褪せない。

  昭和28年春、県立八幡商業高校野球部には井狩忠之という、すばらしい先生が監督を
され、憧れて入学。入部者も少なく、運よく1年生から1番センターのレギュラーを確保できた。

  夏の大会では八日市高校に決勝戦で敗れ準優勝。八日市高校は京都代表西舞鶴高校を
破り、滋賀県勢としては初めて夏の甲子園出場を果たした記念すべき年であった。
秋季県大会に優勝し近畿大会に駒を進めたが、新宮高校の怪物・前岡投手に完封され
センバツ出場は絶望となった。

  3年生の時は主将を命ぜられ、県大会を優勝で飾ることができた。優勝旗を掲げて場内一周の
感激は忘れることができない。京滋大会は立命館高校に7−4で敗れて甲子園の夢は消え、
私自身の高校野球の終焉を迎えた。八商時代はまさに野球にかけた3年間であり、野球漬けの
毎日であった。

  甲子園出場という大目標を達成できず、その悔しさを胸に神宮でのリベンジを誓い明治大学に
進学、夢をつなぐ!

  ふり返れば、52年前の若き日の決断が、関東の地に住み着く大きな節目となったことは
確かである。

(2008年1月 会報第4号より)