故郷彦根について

石田和市郎(いしだ かずいちろう)(彦根市出身)           

私が彦根におりましたのは昭和23年4月までです。

上京前、ある宗教団体の教祖の話によると「彦根の彦は男性を現すので、男根と読み取る
ことが出来る」との話を聞いたことがあります。何故そんな地名になったのかは解りませんし、
こじつけであろうと思います。  

彦根にはご存じ彦根城があり、近くには石田三成の居城であった佐和山城跡があります。
国宝彦根城は建築にあたり他の建築物の再利用で賄われた部分があり、門は佐和山城の門を
移築したものだそうです。私の子供の頃はいつでも自由に城内へ入ることが出来、時々一時を
過ごしておりました。市内は道幅が狭く古い建物の2階は物置程度の高さで二重天井になって
いませんでした。おそらく当時は物置としての用途で、高いところから見下ろすことは許され
なかったのではないでしょうか。

 現在も彦根には私の実家や親戚があります。今まで帰省しても市内を歩くことがありません
でした。2年ほど前に親戚に不幸があり、葬儀出席前に町を散策してみたら、一部ではあります
が道幅も広くなり、記憶にない道もあり、建物も立派になって浦島太郎の感じがしました。
また近い内に思い出のある地を訪ねようと思っております。  

(2010年6月 会報10号より)      

 


琵琶湖周航の歌

松室慈孝(まつむら じこう)(長浜市高月町出身)           

  県人会の終わりにこの歌を合唱すると、瞬時に半世紀を越える学生時代に戻り懐かしさに
胸が詰まります。

昭和33年の夏、普段練習に使うボートでなく固定席の舟でこの歌そのままの琵琶湖一周を
やりました。石山寺下の艇庫を出て大津、堅田を過ぎ、今津近くの村の集会所で一泊、翌日は
湖の一番広い竹生島の横をかすめ姉川の河口から長浜彦根を目指しましたが、風に煽られ
米原近くで葦原に避難し付近の小屋で寝ました。

三日目は多景島を目指し岩だけの島を見て南下、その日に帰り着きましたが忘れ得ぬ琵琶湖
の思い出です。

故郷は湖北の高月町で生家は渡岸寺十一面観音像がある向源寺で兄が住職を勤めています。
目に浮かぶ風景は東の伊吹山と整然と区画された田圃、畦に植わったハンノキの列です。
記憶に沁み込んだこの畦道や小川もハンノキも今では圃場整備でまるで昔と違った景色に
なりましたが夢に出て来る家や田圃は幼い頃のままです。

この地で同じ中学高校を過ごした人が現会長の小野さんで一年先輩、事務局長の新木さんは
同級生です。不思議なご縁でこの千葉で懐かしい人に会えるのも県人会のお陰と感謝して
おります。        

(2010年6月 会報10号より)      

 


蘇った八幡掘

吉村 勉(よしむら つとむ)(近江八幡市出身)           

  八幡堀のボテ(タナゴ)釣りが、子供の頃の欠かせない遊びのひとつでした。堀の水質は、
当時既に悪くなり始め、食用の魚釣りは近郊に出かけなければなりませんでした。

  私が近江八幡を後にする昭和30年代初めの頃、春先には、琵琶湖に注ぐ近郊の河川の畔に
植えられた柳の根に産卵のために、遡上するモロコがよく釣れました。卵をいっぱい抱いた
モロコを炭火で焼き、味付けした卵黄をつけ、再度焼く付け焼きは絶品でした。

  昭和40年ごろ、たまたま帰省した時に見た八幡掘は、雑草とヘドロで埋まり、釣り糸を垂れる
どころか、悪臭を放ちガスが噴出する始末でした。一時は埋め立てて駐車場にする案すら
出ていたようですが、堀は埋め立てた時から後悔が始まります。

  秀次が400年前に造り、かつて三百石の荷船が通い、商都の礎となった八幡堀を何としても
蘇らせるべく、市民が立ち上がりました。市民のボランティア活動等、懸命の努力が行政を
動かし、浚渫・河岸の整備が行われ見事に蘇ったのです。平成18年には国の重要文化的景観に
指定されました。

  近江八幡を訪ねられたら、八幡堀のほか、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されて
いる新町通り、永原町通り、さらには百数年前に来日し帰化した米人ヴォーリズ設計の建築物
(八幡商業高校、池田町洋館街等)をぜひご覧になってください。
   

(2009年12月 会報第9号より)      



夢は湖国の十一面観音めぐり

根本紀美子(ねもときみこ)(大津市出身)           

  私は2007年の春から、放送大学のテニスサークルの女性仲間7人で、中山道を歩いています。
高山彦九郎の坐像がある三条大橋から歩き始め、昔おいしい精進料理をいただいた月心寺の
前を通って大津泊まり。次の日は義仲寺に寄り私の住んでいた膳所へ。膳所神社の門は
膳所城の遺構だというのも今回知りました。瀬田の唐橋を通り野洲泊まり、という具合です。

  歩くだけでなく竹生島に渡ったり、彦根城では1日遊び、ちょうど満月の夜、虫の声とお琴を聞か
せてもらい幸せでした。冬はお江戸から日帰りを繰り返し、あと長野県を残すのみです。仲間の
言うことに、近江の方々はゆったりとしていて優しいそうです。土地が人間を育てるのでしょう。

  私の夢は足腰丈夫なうちに琵琶湖に戻り、十一面観音めぐりをすることです。渡岸寺の観音様に
上野でお会いできて嬉しかった!! 皆さん、井上靖の「星と祭」を読まれましたか?滋賀県には
たくさんのお寺と仏像が守られているんですね。そしてもう1冊、芝木好子の「群青の湖」。
湖北琵琶湖の神秘的な美しさ、近江八幡の古いしきたりの話など、この2冊が私の愛読書です。
琵琶湖が見たくなると、今森光彦の「藍意宇宙―琵琶湖水系をめぐる」をぺらぺらとめくります。

  5歳から20年間育ててくれた琵琶湖。これからも永遠に美しく、人々を癒し続けてほしいものです。     
   

(2009年12月 会報第9号より)      



40年振りの友垣

新納瑞穂(にいろみずほ)(日野町出身)           

  琵琶湖に注ぐ日野川の上流に位置する日野(蒲生氏郷の生誕地)の自宅周辺の野道を
よちよち歩きして以来、高校時代までを過ごした故郷の風景を、40年の星霜を経て
目の当たりにすることが出来たのは、4年前の中学同級の慰安旅行(伊勢)がきっかけでした。

  終戦間際の昭和20年4月に、横浜に住んでいた両親が、東京大空襲の余波で強制疎開を
余儀なくされ、疎開先を探していたところ、父親が以前奉職していた日野高等女学校
(現  日野高校)に温かく迎えていただいたと聞いています。

  その後、私は東京の大学へ進み、家族も昭和41年に東京へ引っ越し、また就職後も
通常土・日曜に実施される中学、高校の同窓会や同級会に仕事の関係で参加することが
できず、日野へ行く機会も無くずっと疎遠になっていました。

  還暦旅行の案内が届いたのは、仕事に少し時間的な余裕の出来た5年前のことで、翌春、
約40年振りに恐る恐る参加してみると、最初は誰が誰か殆ど判りませんでしたが、
相手の顔をよく観察すると次第に当時の面影が蘇り半世紀近くのブランクが一気に解消・・・

  以来、新しいカレンダーが届くと、必ず5/3(日野祭)と11/中旬の年2回の「帰郷」を
書き込みます。
   

(2009年8月 会報第8号より)      



ふる里の歴史に憶う

田中信夫(たなかのぶお)(信楽町出身)           

  今年の新年会で、回り順の自己紹介のおり、つい風呂敷を拡げ過ぎて皆さんの大笑いを
誘った後日談です(一部再録)。

  私の原籍は、滋賀県甲賀郡雲井村字牧です。ご存じ!NHK大阪が報じる冬の最低気温は
決まって信楽です。小学校時代観測で五葉箱などを扱った経験からマイナス15度はざらでした。
謎めいた話ですが、この寒い信楽谷と呼ばれる山中に奈良時代聖武天皇の御代、皇居
紫香楽宮が造営された歴史があります。

  御所跡はもちろん、村名の雲井、地名には内裏野、宮町、勅旨があり、私の生地は
甲賀牧に由来する牧です。
今、周辺は緑深い山々ですが、少年時代の記憶は地肌むきだしの禿山ばかりで、
往時宮殿など建築用材切り出しの名残のようです。  

  もう一つの歴史は古代に遡ります。第11代垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が天照大神の
御杖代(斎宮)として、美濃・近江など鎮座の地を求めた巡歴の故地に、郷里「淡海国
甲可日雲宮」に4年間奉斎したと伊勢神宮の「倭姫命世紀」に残されています。
生家はその「日雲神社」の氏子総代でした。

(2009年4月 会報第7号より)      



懐かしの浜大津

田村宏一(たむらこういち)(大津市出身)           

  私は小さい頃、浜大津の近くに住んでいました。

  自宅の2階からは旧琵琶湖ホテル、比叡山、三上山等が望めました。
休日には遊覧船が軍艦マーチを放送しながら出航して行きました。
堅田、坂本、穴村等を巡る定期船も見えました。

  ホテル紅葉は当初、貸し別荘でスタートしましたが、その埋立工事を貸しボートから
見た記憶があります。
浜大津の岸壁にはクレーンもあり、小さい荷船の船着場には県内から運ばれた薪炭、
川砂等が積まれていました。

  しかし、戦争とともに観光遊覧は休止、物資の流通もなくなりました。
戦後、埋立により湖岸は沖合いへ遠くなりました。
観光は復活しましたが、旧市街はさびれたままで誠に寂しいことです。

  2005年に上京50周年の里帰りをした時、浜大津に昔からある森野写真館に立ち寄って、
昔の浜大津界隈の写真がないかを聞いたところ、たくさん残っていました。
思い出深い場面を10枚ほどプリントしてもらい、大切にしています。

  大阪の兄にも送ったところ、大変懐かしがってくれました。
皆様も帰郷された時、地元の写真館を覗かれてはいかがですか。
懐かしい場面が残されているかも知れませんよ。

(2009年4月 会報第7号より)      

   

近江の思い出

森中小三郎(もりなかこさぶろう)(近江八幡市出身)           

  私は滋賀県出身としていますが、正確には父が近江八幡出身です。そのため小さい時から
1人で東海道線各駅停車の鈍行に揺られ、学期末の春、夏、冬、延々12時間かけて祖父母、
叔父、叔母が暮らす八幡に帰省していました。戦後復興間もない時期で殺伐とした面も残る
時代であり、旅行そのものは決して楽しいものではなく、リスクを伴うものだったと記憶しています。

  そんな状況の中で、あえて私を一人旅させた父の思いを考えると、戦時中も含めて混乱する
さなか、親を故郷に残し母と東京で頑張った者として、私を親元に定期的に送り込むことが、
父なりの滋賀に住む父母、兄弟姉妹に対する孝行だったのかと考えます。休み中の宿題を
含め、身の回りのことも父母よりも何かと叔父、叔母のお世話になって過ごした思い出多き
ふるさとです。

  滋賀の家の周りには小川があり、メダカやザリガニとりをしたり、小学校の庭では近所の
子供たちと野球に興じたり、叔父が田んぼに出ている時は叔母と一緒に弁当を持って叔父の
手伝い、いや邪魔をしに行ったり、結構身体も鍛えることもできました。また義理の叔父に
連れられて、琵琶湖の湖水に親しみ、竹生島、大津、坂本、石山寺巡りや見学、長命寺湖水
浴場での水泳等々、楽しく見聞も広めることができ、思い出をたくさんもらいました。

  父も13年前になくなり、少年時代に面倒かけた近江の叔父叔母も年々歳を重ね、なくなる方も
増え、最近は八幡への足も遠のきがちですが、千葉の県人会の皆様とのご縁を機に、また
故郷近江へ行きたいと考えています。

(2008年11月 会報第6号より)      

   

思い出と近況

園川 裕(そのかわ ゆたか)(水口町出身)           

  滋賀県で生まれ育ち、また比較的厳格な両親共に教師の家庭に育ちながら、何故か
千葉に移り住み、事業を始めて50年が経過しました。蛙の子は蛙で、戦後の新制度
移行の混乱期に学生時代2年間、週2日のアルバイトで信楽中学で英語を教える教壇に
立つという経験をしました。

  千葉ピーナツ株式会社という社名を見れば、業務の内容がすべて分かる会社を創立して
約40年。10年ほど前に優良申告法人という金看板を東京国税局より頂き県内13店舗の
売店をかかえ何とか順調に推移しております。幸い健康に恵まれ齢78歳でなお第一線に
立ち、1日1万歩を実行し、一生元気、一生現役を貫いて悔いのない人生を送っていると
自負しております。

  しかし、幾つになっても故郷のことは忘れることが出来ず,鮒寿司、日野菜漬けなどには
目がなく通信販売で買い求め、思いを馳せております。県人会会合の最後に皆で肩を
組んで合唱した「琵琶湖周航の歌」には歌いながら何か熱いものがこみ上げジーンと来る
ものがありました。

(2008年11月 会報第6号より)      

   

私と滋賀

前川尚美(まえかわなおよし)(元滋賀県副知事)           

  山紫水明、といえば滋賀のことだ、と思っていた。DNAの故か、子供心に憧れに近い
ものがあった。それが、60年代前半と80年代前後、足掛け10年も大津に住むことができた。
果報というほかはない。

  最初の大津時代は、豊かな自然と親しみ、友好を深めるうちに瞬く間に過ぎた。
その頃、国民所得倍増計画がスタートした。県庁で時の経済企画庁長官迫水氏の
説明があり、職員の期待と意気が俄かに高まった。真に劇的な瞬間であり、
これで日本の進むべき道が定まったと思ったものだ。

  二度目の大津住まいは、高度成長後の環境問題が深刻化した時期であった。
着任直後に発生した琵琶湖初の赤潮を、異臭と共に今でも思い出す。 これを機に、
琵琶湖研究所の創設、粉石けん運動、琵琶湖富栄養化防止条例の制定など、
県民あげての環境対策が進んだ。しかし、一旦破壊された自然環境の復元は、
一朝一夕には成らない。

  そして今、琵琶湖は、地球温暖化に苦しむという。1日も早く元の山紫水明を取り戻し、
さらに豊かな故郷を実現するため、県人会の皆様と手を携えて歩み続けたいものと、
心から願っている。

(2008年6月 会報第5号より)      

   

ふるさとを思う

谷口勝己(たにぐちまさみ)(竜王町出身)           

  ふるさとは、誰にとってもふるさとである。想い出が一杯詰まり、懐かしく、恋しく思うもの。
幼なじみの追憶(おもいで)は、瞼を閉じれば、山であり、川であり、人であり、家族であり、
走馬灯の如く様々な記憶が蘇って来る。

  歴史を顧みれば、先人達が様々な時代を生き抜き、後世に大きな功績を残してきた。
特に近江の国は戦乱を乗り越え、近江商人として、知恵と体験から、立派に“三方よし”の
精神を受け継ぎ、今日の発展に寄与し、企業理念として称えられている。

  昨年11月、県人会世界大会に多くの方々が世界各地より参加された。私も参加し、近況を
語り合い、近江商人の精神を誇りに思い、ふるさとを離れた。

  ふるさとは、誰にとってもふるさとであり、生きる力を与えてくれる。私もふるさとに元気を
もらい、明日に向かって、残された命を、地域の振興に一層邁進していくつもりである。

(2008年6月 会報第5号より)      

   
   
若き日の決断

中村 浩(なかむら ひろし)(近江八幡市出身)           

  一昨年古稀を迎えたが、若き日の思い出は強烈で色褪せない。

  昭和28年春、県立八幡商業高校野球部には井狩忠之という、すばらしい先生が監督を
され、憧れて入学。入部者も少なく、運よく1年生から1番センターのレギュラーを確保できた。

  夏の大会では八日市高校に決勝戦で敗れ準優勝。八日市高校は京都代表西舞鶴高校を
破り、滋賀県勢としては初めて夏の甲子園出場を果たした記念すべき年であった。
秋季県大会に優勝し近畿大会に駒を進めたが、新宮高校の怪物・前岡投手に完封され
センバツ出場は絶望となった。

  3年生の時は主将を命ぜられ、県大会を優勝で飾ることができた。優勝旗を掲げて場内一周の
感激は忘れることができない。京滋大会は立命館高校に7−4で敗れて甲子園の夢は消え、
私自身の高校野球の終焉を迎えた。八商時代はまさに野球にかけた3年間であり、野球漬けの
毎日であった。

  甲子園出場という大目標を達成できず、その悔しさを胸に神宮でのリベンジを誓い明治大学に
進学、夢をつなぐ!

  ふり返れば、52年前の若き日の決断が、関東の地に住み着く大きな節目となったことは
確かである。

(2008年1月 会報第4号より)